オーズに憧れてアニメ脚本家になるまで。

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「バブみ」という言葉に母親を殺された人間の話

 これは僕の狂った友人の話だ。

 

 2015年、ネット上で大きな賑わいを見せた「バブみ」というワード。2次元の女性キャラクターに母性を見出すという新しい方向性の萌え文化を切り開き、話題となった。

 

 しかし、いいことばかりだったわけではない。

 

 ブームが進むに連れて、当然オタクによくある「こんなこと言ってる俺マジで変態wwwww」(←そんな自分を面白いと思っている)というようなアイデンティティを持てないタイプの人間が新しい言葉を求めて増えていった。

 本当に母性に飢えているかどうかなどは一切関係なく、ただただそこに「変態っぽく見えるなにか」があったから拾って真似しているだけだった。

 それ自体は若いうちにはよくあることで、内容によっては白い目で流すこともできただろう。しかし、内容が内容だった。「母性」という言葉は、言葉の重みを知らない人間が使うには重すぎたのだ。

 

 ここで僕の友人の話に入ろう。

 現在20代の僕の友人(以下、Aとする)は、複雑な家庭環境で育っていた。

 家族が多い貧困な家庭に育ち、所謂毒親の両親から抑圧されて育っていったAはやがて精神を患い、だんだんと笑わなくなっていった。

 そんなAの数少ない楽しみ、それがアニメ鑑賞だった。A自身オタク気質なところがあり、ゲームや漫画も手元にあれば好んで読むタイプだった。

 そんな数少ない楽しみすらも親から禁止されていたものの、なんとか掻い潜ってアニメを楽しんでいる姿は元気そうに見えた。

 そしてある日、僕はAがアニメを観る最大の理由を知った。

 「このアニメの女の子、こんな素敵な人が僕の母親だったらよかったのになぁ」

 とても複雑な面持ちでそう告げるAに対して、事情を知っているが故に僕はただただ肯定することしかできなかった。

 架空のキャラクターに母親を夢想するAは明らかに精神を病んでいたが、僕にそれをどうにかできる力はなかった。それでもAの心が少しでも落ち着くのであればと思い、僕はそれを応援した。

 Aがそうしている間だけは、辛い家庭のことを忘れて幸せな気持ちになれたのだと言う。

 以前のAは自身の不仲な親や兄弟と家庭をどうにかしようと動いていた時期もあった。しかし、それが完全に失敗に終わったことを僕が知った頃には、彼の目には既にアニメにしか希望が残されていなかったのだと思う。

 

 そうして、Aが母性をアニメで学び妄質的に希望を抱くという歪みきった生活がしばらく続いた。

 そんな中、ネット上で流行りを見せたのが「バブみ」だったのだ。僕はその流行のあまりの無慈悲さに怒りすら覚えた。

 「バブみ」という言葉に乗じて騒いでいた人の全員が家庭的に恵まれていたとは思わないが、ほぼ大多数の人間は「普通」の家庭に生まれ「普通」に育ってきたのだろう。そんな人間が、間接的にAという人間の生き方を否定し見世物として嘲笑っている。

 許せなかった。

 ネット上では「気持ち悪いwwwww」と言われながらも面白いものとして、コンテンツとして消費されていった「バブみ」。

 しかし、人が母性を求めるのはそんなにも可笑しいことだろうか。気持ち悪いことだろうか。

 母性を与えるべき人間から与えられなかった人間が誰かに迷惑をかけるわけでもなくただただ自分の思い込みで必死に母性を得ようとしている姿を、気持ち悪いと嘲笑できるものなのか。

 そして、Aはそんな流行を見ながら、乾いた声で「俺、気持ち悪い人間なのかな……?」と僕に問いかけてきたのだった。Aの目には絶望の色が浮かんでいた。

 必死に生き抜いた末の生き方を否定されたのだから、ショックを受けて当然だ。

 流行に乗った人間の全員が必死に生きていなかったとは思わないが、流行に乗った人間が1人の人間の生き方を否定したことは紛れもない事実だ。

 「バブみ」の一件を受けて、Aはアニメから少し距離を置くようになってしまった。きっとそれはAにとって辛いことだったに違いない。それでもなお、Aは今も必死に生きている。

 母性を知らないAが世間に馴染んでいくのはきっと想像もできないほどに大変なのだろう。きっとこれから先、母性を知らないというだけで数多くの苦難を強いられるのだと思う。「バブみ」の流行がそうであったように。

 それでも僕はAのことを応援していきたいと思う。Aがこのクソみたいな流行から立ち直って、「普通の家庭に育っているのが当然」という人々の認識と、そこから生まれる障害や差別を変えてくれると信じているからだ。